母の一生(悲しみをこえて) 玉永寺坊守 石川千穂子 1999年8月

 

 母、瑠璃子は19歳のとき、昭和12年9月3日の暑い日、玉永寺の長男、義之に嫁ぎました。日中全面戦争の中、すぐにも、戦地へ行くということで、急いで式をあげました。嫁いで一週間、祝い事が続き、9月12日、富山連隊冨士井部隊に入隊、10月12日中国郭宅で戦死いたしました。家は、義之の祖母のヤイ様、母のかずえ様、弟の雅楽様、妹の人子様との5人家族となりました。

 

 急きょ、寺の仕事を弟の雅楽が継ぐことになり、京都専修学院へ勉学に行き、その間、祖父の兄弟の高野様に寺の仕事をしてもらいました。

 

 京都での学問を終え、教師資格を取得した雅楽は母と結婚。私が生まれ、三歳になって片言が言えるようになったころ、ほっとする間もなく、第二次世界大戦にて昭和17年1月28日、東京赤羽部隊に入隊され、父は戦地に旅立ちました。

 

 戦争はますます激しくなっていきました。

 

 玉永寺は、大正4年に本堂、昭和8年に庫裏が建立されました。苦労を重ねた祖父(義重)はその中で病に冒され、昭和10年、53歳心臓病で亡くなっていました。本堂は天井もなく、庫裏も中壁がしてあるだけ。風が吹くたびに、ぼろぼろと泥が落ち、まだ借金がある状態でした。

 

 寺には東京大間窪から小学生、職員、作業員、寮母ら、55人が疎開してきました。もう、なんだか、わけがわからない状態でした。毎日毎日大勢の暮らしです。その中で母は、寮母としても働いて、こどもたちのお世話をしていました。

 

 寺の仕事は祖母と生家(等通寺)の祖父と母でやり繰りしていましたが、母は昭和18年11月、京都へ教師の資格を受けに行きました。毎日毎日つめこみの勉強であったそうです。

 そのころは、女性住職は許されておらず、代務者としての教師資格でした。

 その後は、葬儀に導師を勤め、本格的に寺役まわりを始めました。母が24歳の頃からだと思います。

 

 自転車もなく、歩くばかりの日々、一日に二人も亡くなられた時には、体がだるく、足の裏が膿んで歩けくなりました。それでも、下駄を履いてがんばっていました。

 20年8月、無理を重ね、母はついに肋膜炎を患ってしまいました。幼い私に病気をうつしてはいけないと、祖父母の計らいで、私を残し、生家に帰り養生していました。

 8月15日、敗戦。その8日後、8月23日、父はパラオ島で餓死しました。病床で、母は夫の死を知りました。戦争は、母の幸せも、なにもかも、奪いました。

 

 境内にあったまわりが4尺5寸もあった20本の杉の木、水橋から五百石までこんな立派な杉はないといわれた杉を供出。梵鐘も供出。住職二人も戦死。疎開児童も帰りました。その後は、毎年毎年、本堂や庫裏の修理の連続でした。そのために、毎日、毎日、お世話方が来られ、お金の相談。その後は酒。寺は荒れ放題。叔母(上市の称慶寺へ嫁ぎ三十九歳で死亡)が結婚することがまとまった時、お世話方の中に、笑いながら、一体だれが結婚するのかと尋ねる人がいました。その時の悔しさを、今でも忘れることができません。母は若く、まだ34歳の時でした。

 寺は私と母と二人だけになり、お世話方が夜遅くまでの宴会、暴言。恐ろしさで隣の家まで、裸足で飛び出したことが幾度もありました。

 母はやっと購入した自転車に乗って、黒いマントを着、雪の中も雨の中も走りました。いつも、帰ってくる頃は、日が暮れていました。つぎのあたった足袋と濡れたマントが、こたつのやぐらに掛けられていました。

 

 それでも、暖かく迎えて下さったご門徒の皆様に支えられ、耐えてきたのだと思います。私は学校に行くようになり、近所のおばあちゃんたちが留守に来てくれていました。

 

 高校を終え、上の学校を望みましたが、「片羽根しかない私をどこまでこうさせるの。無理したら、もう片方の羽根も折れてしまう」といった母に、返す言葉もありませんでした。

 私は19歳になったとき、結婚。母は「まじめにたてなさい。」と繰り返し教えてくれました。今も耳の底に残ります。

 

 母は40歳になったころから、県の未亡人会、教区の坊守会、村の婦人会等、いろんなお世話をして、とっても強くなっていました。父が戦死したフィリッピンまで一人で出かけ、私も誘ってくれましたが、男の子3人持った私は、子育てに忙しく、母を思いやることができませんでした。「あんたがいたからがんばってきたのだ」といった母の言葉に押しつぶされる思いでいました。

 

 60歳になってから、役をいっさい止め、今度はあなたが出なさいと坊守会に出ることをすすめてくれました。その後、心臓を悪くし、昭和58年1月1日、心筋梗塞で、63歳にて、浄土へ帰っていきました。

 亡くなる日の午前、救命救急センターのベッドの上でポツリと言いました。「死ぬって淋しいね」私は思わず応えました。「お母さん、彼の国(弥陀の浄土)へ生まれるのだと先生が教えて下さった、淋しくないよ」「あっ、そうなの。彼の国だね。こうして寝ていて自分の一生を振り返ると、私は本当にしあわせものでした」それが最期に交わした言葉でした。ちょうど私が歎異抄の9章を学んでいたときでした。いつも愚痴ばかりこぼしていたけれど、強い母だったのに。私は母に背を向け、涙がひとりでに流れました。その夜に急変し、母は亡くなりました。

 

母の一生は自分の幸福より、寺院護持の一生でした。みなさんに見守られ、私自身の信心が問われる日々です。「まじめにたてなさい」今なお、母の声が聞こえます。早いもので今年は17回忌です。終戦より、半世紀経た今年も、東京より、疎開児童であった方々が、お参りに来てくださいます。