蓮如の旅

 1998年4月17日から4月18日にかけて、一泊二日でご門徒さんを引率して、蓮如上人五〇〇回御遠忌に行って参りました。いろいろ感じたことを書かせていただきます。

蓮如 れんにょ 1415〜99 戦国時代の浄土真宗の僧で、本願寺中興の祖。諱(いみな)は兼寿。京都東山大谷の本願寺7世存如の長男として生まれた。15歳のとき、おとずれる人もなくさびれていた本願寺を再興する志をたて、困窮の中で真宗の教義を修学した。父の死後、43歳で本願寺8世をついだ蓮如は、まず近江の門徒の掌握をはかったが、対立する比叡山の衆徒に大谷本願寺をせめこわされ、親鸞の像を奉じて大津にのがれた。1471年(文明3)越前に吉崎御坊を建立して北陸布教の拠点とすると、たちまち門前町ができるほど信徒があつまった。4年後、加賀守護富樫政親(とがしまさちか)の圧力で吉崎をおわれると、畿内に拠点をうつし、78年から京都山科に本願寺の再建をはじめ、96年(明応5)には大坂に石山本願寺を建立した。
その間1488年(長享2)に加賀の門徒は農民とともに一揆をおこして富樫政親をたおした。蓮如はこれをおさえようとしたが、以後およそ1世紀にわたって真宗門徒による一向一揆は加賀一国を支配しつづけた。
蓮如には、「正信偈大意(しょうしんげたいい)」「領解文(りょうげもん)」などの著作のほか、「御文(おふみ)」とよばれる書簡形式の文書が200通余りある。これには真宗の教義が平易な文章で書かれており、もっとも効果的な布教の手段となった。一心に阿弥陀仏を信じれば往生が決定するという「信心正因説」、念仏は阿弥陀仏の恩にむくいるためとする「御恩報謝」、世間にあっては国法にしたがえとする「王法為本」などを説き、現実を読み説くすぐれた能力と精力的な行動によって浄土真宗を大宗派にそだてた。

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 京都で一泊し、18日、三井寺・園城寺へまいりました。写真は国宝の金堂です。

 蓮如さんが京を逃れるとき、比叡山と緊張関係にあったこの寺に親鸞聖人の御影像を預けた。そして、山科本願寺再建の際に、それを取り戻すために、無名のご門徒が自らの首を差し出したという伝説が語り継がれてきました。

 当時の念仏者たちの厳しい状況を思い起こさせる逸話です。しかし、現代の私たちが学ばなくてはならないのは、なぜ、そこまでして念仏の教えを守らなければならなかったのか、ということです。「命がけ」という言葉に酔ってはいけない、ということを強く思います。






 蓮如上人の母親は明らかではありません。
 夫が正妻を迎える際に、我が子を絵師に描かせ、身を隠したといわれています。そして、蓮如さんは生涯、母を捜し求めていたともいわれています。このエピソードはアニメ映画、「蓮如物語」でも大きく取り上げられています。

 琵琶湖のほとりにある石山寺は縁結び、安産の御利益があるという如意輪観音像を本尊とする真言宗のお寺です。

 最近は、紫式部がここを参籠中に湖上の月をながめ、「源氏物語」の構想をえたという事で有名ですが、江戸期までは蓮如さんの母の寺としてにぎわっていました。







 蓮如の母をこの石山観音の化身であるとする説が、蓮如没後、間もなく文献に出てきます。
 「或人、石山寺に参たりしに、此の上人六歳の寿像、かの如意輪観音の仏壇かけられをかれしを人皆これを見、されは彼母儀御前はただちに石山の観音たりと云事、不可疑事也。」(拾塵記)

 上の写真は本堂の前にひっそりと建てられている「蓮如堂」という建物です。お聞きしますと、いつから建てらたのかは、定かでないそうです。

 こちらに伝えられている座像の「鹿子の御影」そして、その鹿子絞りの小袖と伝えられているものが、御遠忌にあわせて、ひっそりと一般公開されていました。本当に素朴なものでした。左は石山寺に所蔵されている古版木「鹿子のご影」です。
 一般には、立像のものが有名なのですが、こちらの方が信憑性が高いという説をお聞きしたことがあります。

 蓮如さんがどのように庶民に愛され、親しまれてきたのか、感慨深いものがあります。





 大谷派の吉崎別院です。(コメント作成中)