沖縄

  石川 慧 2002年 8月21日


3月
26日、春休みに僕は沖縄に行き、ひめゆりの塔と平和祈念公園に行きました。



「ひめゆり学徒隊」について

沖縄戦の際に沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校の生徒達で編成された従軍看護隊がひめゆり学徒隊です。他校の女子学生達も同じように戦場に駆り立てられました。

彼女達は身の危険もかえりみず不眠不休で治療看護のために日本軍と行動を共にしました。数え切れない程の人たちが死んでいくのを目の当たりにしながらもただひたすらに祖国の勝利を信じ、日本軍の為に必死で看護活動をしてきました。

米軍の攻撃が勢いを増して沖縄守備軍は南へ南へと撤退、死傷者がどんどん増えていくなか6月18日、軍は戦場の真っ只中で、学徒隊に解散命令を下しました。それは傷つき消耗した生徒たちを敵だらけの地上へ放り出すことになりました。

投降を許さず「捕虜になると男子は殺される、女子は辱めを受けるその前に自決せよ」という当時の教育のために、多くの犠牲者がでました。生き残った者も、さらに荒崎海岸に追い込まれ、自殺した人もいました。「ひめゆり部隊」の犠牲者194名のうち、「解散」後の死者は128名でした。


「ひめゆりの塔」について

 「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所、第三外科壕の上に「ひめゆりの塔」は立てられています。

 ここに部隊が移動した6月には医薬品や食糧も底をついていました。軍より解散命令の後、壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や生徒の多くが死亡、生還者はわずかでした。

ひめゆり同窓会によって建設されたひめゆり平和記念資料館も、同じ所にあります。

 遺品や実際使われていた遺留品、手榴弾、当時の映像上映、復元された陸軍病院壕、生存者の方々の証言集などが展示されていました。

 復元壕の前で「ひめゆり部隊」の生存者の方が当時の事をはなしていらっしゃいました。これからの世の中を作っていく僕たちに伝えてほしいという熱意を感じました。


平和祈念公園について

1945年3月末、史上まれにみる激しい戦火が沖縄を襲いました。軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに多かったこの戦争をもう二度と起こしてはいけない。沖縄戦の歴史的教訓を正しく次の世代に伝えるため、そして永遠の平和を願うために、沖縄戦の最後の場所である糸満市摩分仁に1995年6月、平和祈念公園は建てられました。

 波型に広がった平和の礎(いしじ)には国籍・民間人・軍人に関係なく沖縄戦で尊い命をおとした236、095名(1996年6月調べ)の氏名が刻み込まれています。そこで遺族の方が供えられた献花を目にしました。

 中央には噴水があり、中を見るとアジアの地図が描かれています。その噴水は沖縄の位置上におかれ、そこから出る水の輪は平和を意味しているそうです。沖縄から全世界に平和を発信しているという意味が込められています。礎の中央を通る一番広い通路とこの噴水を結ぶ延長線上から、沖縄戦が終わった6月23日の日の出が昇るよう設計されているということです。

 ガラス張りのフロアーには本物の不発弾が展示されていました。資料館にはかなりの展示物があり、時間がなくて全てをまわることはできませんでした。

 大画面で戦争の映像が繰り返し上映されていました。当時の状況が人形で再現されていました。暗い壕のなかで、おびえる家族と泣きじゃくる赤ん坊の口をおさえる母親と「外に声がもれると敵に見つかるではないか。殺すぞ。」と銃を突きつけていた日本兵がつくられていました。実際にこうしてたくさんの赤ん坊が死んだそうです。

 「証言の部屋」では生存者の方の証言ビデオをみました。そのおばあさんは、逃げる時にけがをした友達から「置いて逃げて」といわれて、泣く泣く逃げて行ったというお話をつらそうにおっしゃっていました。

平和祈念公園にあるメッセージ

 沖縄戦の実相にふれるたびに、戦争というものは、これほど残忍で、これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです。

 このなまなましい体験の前では、いかなる人でも、戦争を肯定し美化することは、できないはずです。

 戦争をおこすのは、たしかに人間です。
 しかし、それ以上に、戦争を許さない努力のできるのも、私たち、人間ではないでしょうか。

 戦後このかた、私たちは、あらゆる戦争を憎み、平和な島を建設せねば、と思いつづけてきました。

これが、あまりにも大きすぎた代償を払って得た、ゆずることのできない私たちの信条なのです。

人間が人間でなくなってしまう戦争は、本当に恐ろしいと思いました。平和の大切さを学びたいと思いました。