廣瀬杲講述 「教学の諸問題」より

『無量寿仏観経』

 富山聞光会は現在休止しております。「正信偈以前」のあと、廣瀬先生がお話された講義ノートを掲載させていただきます。
(文責 石川正穂)

  私の性格がしつこいからでしょうか、なかなか事柄を先に進めていくというような話しができませんので、ついつい繰り返していくということになってしまうのですが。ともかく先回お話しした軸になるようなことは、先程申し上げたようなことであったと思います。そこで私が自分の中で問題として意識しておりますことは、あまりにも親鸞の虚像のもとに私達は自分を位置づけすぎているのではないかということが思われてならないのです。だから親鸞の実像にどこまで迫れるかということと、それは同時に親鸞の思索の本質をどういうふうに了解するかということもひっくるめて、親鸞という仏教者の願いというものを自分なりのところで頷いていければと思ってこんなことをお話ししているのです。

 それで今日主題にしてお話ししようと思っておりましたことは、先回のお話のひとつの軸にしましたのが『観経・阿弥陀経集註』ということなのですが、そこに集められている註まで点検するという確かめがまだ出来ておりませんので、少し外側からことを確かめていきたいと思っているのです。それでいわゆる『観経・阿弥陀経集註』と呼ばれている書き物が、西本願寺の宝蔵から発見された時、もともとは一巻の巻子本だったのです。ところが最初にその確めをした時に、『観無量寿経』と『阿弥陀経』という二つの経典に分けて考えてしまったのですね。確かに内容を見ていけば、『観無量寿経』については善導大師の『観経疏』を中心としてその他の註疏を引いておられますし、そして『阿弥陀経』については『法事讚』という善導大師のお書き物を中心にして書いておられます。したがって最初から『観無量寿経』と『阿弥陀経』という二つの経典に、それぞれ註を集めたのだろうという考え方が先行して、二つの経典に割ってしまったのです。私は、これが大きな過ちを犯すもとになってしまったのだと思うのです。しかもそのことを、立派な先生がおっしゃいますと、これはもう動かないですよ 。とくに昭和27年の3月にこの『観経・阿弥陀経集註』が国宝に指定されます。ちょうどその頃に、これが「観無量寿経集註」と「阿弥陀経集註」というふうに完全に二巻に分けられて、コロタイプの復刻本になって黒い立派な箱に入って出たのです。こうなるといよいよ動かないですよね。ところがそうやって二つに分けて「観無量寿経集註」と「阿弥陀経集註」という題名をつけたのですけれども、やはりどうしてそういう題名をつけたのかという根拠がもうひとつ明確ではないという気がするのです。かと言ってその書き物自体に題名のようなものが示されているかと言うと、それも見つからないのです。とするともともとはどういう題名だったのでしょうか。

 それがひとつ見つかったと言えば見つかったのです。それはこの『観経・阿弥陀経集註』の解説に出ていたのですが。実は存覚上人が29歳の時に、この『観経・阿弥陀経集註』と呼ばれる書き物を一番最初に書写されたということをご自分で書いておられるのです。その書き方は、(キチッと読めないのですが、一応読んでみますと)「この本は上人御自筆をもって慥に写し奉るところなり、去年丁巳季春の候より今茲戊午暮秋の天に至るまで、両載数月の居諸に渉り、一巻二経の書写を終わりぬ。」と書いてあるのです。ここに一巻二経という書き方がされていますよ。だから『観無量寿経』と『阿弥陀経』と分けて、二巻二経というふうにはなってはいけないわけですね。そしてこれもその解説に書かれていて、おそらく間違いことだと思うのですけれども。その一巻二経の書き物に存覚上人が書いた題名が、『観阿弥陀経』と書かれているのです。とすると存覚上人が書写されたその時の経典は一巻二経であり、その題名が『観阿弥陀経』という経題になっています。これはこれ以上それはどういうことなのかということになりますと、その『観阿弥陀経』の中に集められた註の内部にわたって見てい かなければ、ことははっきりしませんけれども。私は、何か非常に大きな問題を見落としてきたのではないかという気がするのです。やはりこのお書き物が発見されて、その内容の点検をしていこうとする時に、それに携わっている方が、すでに『教行信証』やそのほかのお書き物についてよく知っているものですから。その知っている感覚から逆に、若き日の親鸞の思想の跡を、法然門下での学びの中で『観無量寿経』と『阿弥陀経』の二経に註を加えた単なる自習書、学習ノートのようなものであろうと勝手に位置づけてしまったのではないかと思うのです。私は、これは決して許されない過ちだと思います。そのあげくもともと一巻の巻子本で表裏にびっしりと書き込んである、そういうひとつのものを、「観無量寿経集註」と「阿弥陀経集註」というふうに完全に二つに分けて、二巻本として出してしまったのですから。こうなるともう動かないですよ。

 ところが私は、存覚上人が29歳の時に書いた奥書の中に示されております『観阿弥陀経』という経題を見ておりますと。やはり親鸞聖人には『観阿弥陀経』という経名で、『観経』と『阿弥陀経』の二経によってひとつの事柄を確かめていこうとなさった、そういう時が親鸞聖人にあったと思うのです。だいたい親鸞聖人がまだ若い時に、聖道の諸教から決別して浄土宗の徒となったその感動の中で、しかも弾圧のまっただ中でこれを書いた。さらには越後へ流罪になって、確かに私達がお気の毒にと言うような感じではないにしても、かなり厳しい生活の中で強靭な意志力をもって書き続けたこのお書き物が、いいかげんなものであるはずがないと思うのです。そういう意味で私は、親鸞の最初の思索の営みと言っていい、この『観阿弥陀経』という一巻二経の経名と、その中に書写された経文に註を加えていくというこの営みは、よほど丁寧に見定めていかなければならないと思うのです。

 そういうことを私がとくに強調しますのは、実は親鸞聖人の思想の営みというものには、善信という名をもって教学の営みを続けた時と、愚禿釈親鸞という名告りのもとに教学の営みを生涯をかけてなさった時と、二期あると思われるからなのです。それはどういう選びをするのかと言うと、まず師法然の膝下にあった時、膝下から離れたとしても師法然の御在生の時ですね。親鸞聖人にとって法然上人という方は、これはある意味で、「法に依って人に依るな」ということをお釈迦様がおっしゃって、親鸞聖人もおっしゃっておいでになったということがあるのですが。しかしそう言われれば言われるほど、人を通してしか法に依ることができないところに大きな問題があるのです。「法に依って人に依るな」と言ったら、その人から法を聞いたのだけれども、もうあの人はいらん人だというふうな単純なことなのでしょうか。私は、「法に遇うはすなわち人に遇うなり、人に遇うはすなわち法に遇うなり」とこう言えないかぎり、こちらの意識が法か人かという両方並べての選びになっていってしまうのではないかと思うのです。としますと、なにも親鸞聖人が法然上人にしがみついていたとは言いません よ。しかし「よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と言い切った親鸞にとって、法然という人の一言がどれほど大きなことであったのか。それは仏教がひっくりかえるようなことですからね。その法然上人が生きている間にやらなくてはならなかったことは、言うならば仏弟子であることの徹底した確めですよ。それが私は善信という名前を、法然上人にお願いしてつけていただいたということの持っている意味だろうと思うのです。確かに『教行信証』の後序には、善信という名前は出てきません。ただ「綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ。」と、こう言っています。その「名の字」は何かと言うと、存覚上人がそれは善信だと言われて、だからこれは善信だということになっているのですけれども。それが事実かどうかという証拠を示せと言われると困るのですが、私はそれで十分だと思うのです。というのは、師法然房源空上人から空という一字をいただいて綽空という法名をいただいたのですから、これは嫌だと言うわけにいかないと思うのです。ところがその法名を返上する形で、夢のお告げで私はこういう名前を自分の名にしたいと 思いますと申し出たところ、法然上人がそれはよかろうということで御自筆でその名前を書いて下さった。それは後序の文で言いますと、「建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」というところから展開してくる『選択集』の附属、真影の図画、そして讃文を書いてもらったというようないろんな出来事の結びに、この「名の字」を書いてもらったということが置かれているのです。とくに法然上人のように、字を書くということを極力自分で規制しておられたと言ってもいい人に、讃文を書いてもらったということがあり、その中で親鸞自身が申し出た名前を、法然上人が喜んで書いて下さったという、ある種の感動をもって語られているのですが。そこには単なる名前を変えてもらったという、そういう個人感情ではない何かがあると思うのです。やはり、それまでに並んでいる『選択集』の附属だとか、真影の図画だとかいうことを押さえるような名がそこにあると思うのです。それが善信という名であると存覚上人が『六要鈔』の中で言っておられるわけですが、おそらくそれに間違いないと思うのです。それは『歎異抄』の中で、親鸞と法然の信心一異の問答のところでも、善信房と言われておりま すしね(善信というのは房号だと言われる方もありますが)。さらに法然上人が、比叡山に出さなくてはならなかった『七カ条の起請文』がありますけれども。二尊院に残っておりますものには僧綽空と書いてあって、それが親鸞が法然門下にいたということの唯一の証拠だと従来言われてきました。ところが親鸞聖人が晩年、法然上人の行実を記録した『西方指南鈔』を書写なさいましたその中に、今の『七カ条の起請文』が出てくるのですけれども。そこに記されている名は、綽空ではなくて善信に変わっているのです。そうしますと私は、やはりこの夢のお告げの名というのは善信に間違いないと思うのです。

 ここまで話しますと、その夢のお告げの夢とはどういう夢か、というところまで話しを進めていかざるをえないのですが。それは親鸞聖人が19歳の時、磯長の聖徳太子廟に三日間参籠なさったということが言われておりますが、今ではそれは事実であろうと言われています。その時に聖徳太子の夢のお告げがあるのですが。それは「我が三尊は塵沙界を化す。日域は大乗相応の地なり」という言葉から始まりまして、そして一番最後に「善信善信真菩薩」と、「善く信ぜよ善く信ぜよ真の菩薩を」という言葉で夢告の言葉が結ばれます。私はもしその時の夢が事実であるといたしますと、その夢は親鸞にとって非常に大きな課題を与えていると思うのです。「日域は大乗相応の地」であると言うのですからね。この粟散片州の国、日本を、大乗相応の地として位置づけて、まさにそこに大乗の至極を開顕する菩薩がやがて登場する、その菩薩を、善く信じ善く信ずる存在となれ、というのがあの夢の趣旨だと思うのです。「汝が命根まさに十余歳なるべし、命終わりて必ず清浄の土に入らん」という言葉もありますしね。まさに夢らしい言葉だと思いますよ。それをどう了解するかというよりも、夢というも のはキチッと論理だった夢なんてかえっておかしいのであって、とんでもないことを見るのが夢なんでしょう。そのとんでもないことの中に、人間が醒めて物を言う時よりもずっと真実なることが語られるというのが夢の性格ですよね。そういうことから申しますと、私はあの夢の中の「日域は大乗相応の地」という言葉と、一番最後の「善信善信真菩薩」という言葉のこの二つが。やがて親鸞が法然に遇って、法然の浄土宗の中に見出した大乗の至極としての誓願一仏乗であったと思うのです。だから親鸞は、そのことをはっきり和讃の中に示しておりますね。そういう全体を見ていった時、善信という名は、やはりこれは親鸞が自らの中で、この名をもって一向専修念仏の徒として師法然の本願念仏の教えに帰し。本願念仏の教えひとつをもって大乗の至極を確かめていく、それが善信という名ではないかと思うのです。そしてその善信という名で学んだものが、私はこの『観阿弥陀経』の集註であって、そこから何が引き出されてくるかということがひとつの確かめ点として見ていきたいことなのです。

 もうひとつ、今度は愚禿釈親鸞という名告りは、これはやはり越後流罪ということを契機として愚禿釈親鸞と名告るようになったということが、『歎異抄』の最後の「流罪以後愚禿親鸞と書かしめ給うなり」という言葉ですとか、あるいは親鸞聖人のお弟子の一人で性信という方のところに伝わっております『親鸞聖人血脈文集』の中に示されていたり、さらには覚如上人『御伝鈔』の中にも出てまいります。ところが『御伝鈔』のそれは、勅免を主張していく文章ですよね。確かに「『顕化身土文類』の六に伝わく、」と言って、『教行信証』の後序の文が引かれて、そして弾圧の記録が書かれていますけれども。その後「岡崎中納言範光卿をもって勅免。」と、この勅免で切ったとたん弾圧を受けたことがみんなどこかへ飛んでいってしまうのですよ。そして死罪流罪いろいろあったけれども、「みなこれを略す」と言ってみんな略してしまったのですからね。そのあげく「禿字を書きて奏聞し給うに、陛下叡感をくだし、侍臣おおきに褒美す」と、勅免を受けて禿字を名告ったことに対して、天皇が感動し、天皇のおそばに仕える人達も褒めたと言うんですから。そうするとこれは『教行信証』の後序の 文を引きながら、実は逆に勅免の浄土真宗を明確化したことになりますよね。ところがそこでちょっと気になることがあるのですが、その『御伝鈔』を書いた覚如上人が、同じ頃に『拾遺古徳伝』というものをお書きになるのです。この『拾遺古徳伝』というのは、覚如上人が門弟の一人の要請を受けて書いておられるのですが。そこにはちょっと他のものには見ることの出来ないほど弾圧の実状というものをリアルに書いておられます。『拾遺古徳伝』は絵と文で書かれているのですが、あの住蓮・安楽の首が飛んでいる、その飛んでいる口からお念仏が称えられている、というような具象的な形をとった絵を描いています。そういうひとつの矛盾ですね。いわゆることは知っていた。知っていたけれども、それをあえて消して、弟子の要請に対してはそれをかなり強調したと言ってもいい書き方をした。このあたりにも、私はひとつ問題を感じているのです。

 ともかく、そういうようなことも考えました時、愚禿釈親鸞という名は、やはり越後流罪ということを契機として名告った名であるということは間違いないと思うのです。しかしそれは流罪に遇うた時なのか、流罪の罪が許されてからなのか。いつなのかということが明瞭ではないと思うのです。その時に私は、はっきり言い切ってしまいますならば、親鸞聖人の『教行信証』の後序の書き方が、そこの罪の許された時の書き方が、実は全部許されたとは書いていないのです。法然の罪が許されたと書いています。ほかの書き物は、その時ほかの人達も全部許されたと書いてありますけれども、親鸞にとってはほかの人が許されたとか自分が許されたとか、そんなことはどうでもいいことなのです。法然が許された、自由の身になって京都へ帰ってきて大谷の地に住み移った、にもかかわらずその翌年に亡くなっていかれたということを書いて、そして「しかるに愚禿釈の鸞」と、こう書き出していくわけですから。そうすると法然の死ということを境にして、善信の名をもって法然の教えを受け止め、法然の教えによって自己を明らかにしていこうとする、その思想の確かめの時と。そしてその法然がこの世 を去って、遺教のみが残った。その遺教を聞いていくことによって誤りなく法然の本意を明らかにしていく仏弟子としての役割が残った。その時の名告りが愚禿釈親鸞であり、そしてそれはまさに教学者親鸞の名告りだと思うのです。自分は命終わるまで、法然によって浄土宗として興行された事柄、それは選択本願念仏ということをもって軸とし往生の業は念仏をもって本とすると言い切った事柄を、自分の生涯を通して教学として明確にしていく。それが私は愚禿釈親鸞の名告りであり、愚禿親鸞の名のもとでおこなわれてくる越後以降親鸞の命終わるまでの教学の営みだと考えているのです。

 そんなふうに考えてまいりますと、そこでひとつはっきりしてまいりますことは、先程の『観阿弥陀経』という経題を持った書き物は、これは親鸞が善信という名をもって、師法然の教えを受け止めたその時のお書き物であるということは間違いないと思うのです。その時に『観阿弥陀経』という、『観無量寿経』でもなければ『阿弥陀経』でもない、この『観阿弥陀経』という経題をずっと見ておりますと。確かに中身は『観無量寿経』と『阿弥陀経』に違いないのですが、親鸞の意識の中では『観阿弥陀経』という、実動する経典とでも言うのでしょうか。そういうものを、実は善導の教学の中に聞き取っていたのではないかと思うのです。言うならば師法然が「偏に善導一師に依る」と言ったその善導の教学の中に、『観阿弥陀経』という内面に動きのある経典を親鸞は聞き取っていたのではないかという気がするのです。何の根拠があってそういうことが言えるのかと言われると困るのですが、あえて言わせていただくならば、やはりこの『観阿弥陀経』に書写されている『観無量寿経』という経典は、結局は南無阿弥陀仏を明らかにする、すなわち念仏の法門を明らかにしている経典だと思うのです 。それは『観無量寿経』の最後のところの下品下生段に、「十悪五逆具諸不善」の人が、「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と言われて。それに何の疑義も何の分別も挟まず、「十念を具足して南無阿弥陀仏と称」して往生したという話しで終わっていく。それがやがて流通分のところで、「汝よくこの語を持て、この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり」という釈尊の言葉となり。その言葉に善導大師は「上来定散両門の益を説くといえども、仏の本願の意を望めば、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称するにあり」という決定をするわけでしょう。そうすると『観無量寿経』という経典の教意は、この南無阿弥陀仏すなわち念仏の法門を明らかにするということに帰結するわけですね。そしてその念仏の法門の誤りなきことを証誠するのが『阿弥陀経』なのでしょう。

 『阿弥陀経』は短い経典ですが、その前半ではいわゆる阿弥陀の浄土の依正二報が説かれ。そして後半の方は、その阿弥陀の浄土へ念仏によって万人が平等に往生するということが極難信の法であるということが示されて。極難信の法であるが故に、釈尊だけではなくて、六方の諸仏が同じ声同じ言葉をもって、念仏の法門が真実であり誤りなきことを証誠護念したもうということが『阿弥陀経』の大事な要点になってくるわけですね。ですから、言うならば『観無量寿経』と『阿弥陀経』の二経は、二経でもって念仏の法門を明らかにし、念仏の法門の誤りなきことを証誠している。そうしますと、この『観阿弥陀経』という経名は、おそらく親鸞聖人が善導大師のお心を通しながら自ら頷いておつけになった経名であるということは、これは決して無理なことではなくて、むしろ当然なことのように思えてくるのです。

 だいたい法然上人の教えというのは、念仏の法門を教えたわけでしょう。法然の教えは、選択本願念仏という六文字で示されるわけですから。そして題下の「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」という十四文字で、南無阿弥陀仏、すなわち念仏は往生の業の本と為ると言い切ったのでしょう。念仏は往生の業のひとつではないのだと。万人が千差万別の業縁のもとに、千差万別の業を生きていく。その業を変えるのではなくて、それすべてを往生の業として変革していく根源。そこに働くものが、南無阿弥陀仏である。したがって南無阿弥陀仏は、人間が称えたから称えなかったからというようなところに決定点を置くことはできない。それは、選択本願の念仏であると。ですから法然上人は何を万人の宗として示したのかと言ったら、それは念仏ですよ。なんだそんなことわかり切ったことじゃないかと言いますけど、それがわかり切ったことではないのですよ。だから親鸞聖人は、法然上人を讃える和讃の中で「念仏宗をひろめしむ」とおっしゃいますね。念仏宗という言い方は、親鸞聖人のお書き物の中で、あそこ一カ所だけですよ。いかにも奇異に感じられます。「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたもう」という御和讃の方がわかったような気がしますよ。念仏宗と言われますと、何かもう昔からそうだったのではないかという話しに感じられます。しかし私はそこで、親鸞聖人があえて念仏宗という言葉を使ったということの趣旨は、その念仏ということの押さえがキチッとされなければ、いくら仏教だと言っても全部どこかで変質していくものだということをはっきり示しておられるのだという気がするのです。そしてそういうことを親鸞聖人が感じ取られたのは、確かにそれは法然上人との出遇いに違いありませんけれども、法然上人の教えを通して、法然上人が「偏に善導一師に依る」と言われた、その善導の教学に強く惹かれていったと思うのです。それはとくに善導大師が命をかけた『観無量寿経』という経典そのものに、親鸞聖人の眼は非常に積極的に向いていったのだと思うのです。

 そしてそのことが有無を言わさない形で、この『観阿弥陀経』の中に示されているのです。それは親鸞聖人が最初の『観無量寿経』部分を書写していかれるに、その経題が『仏説観無量寿経』とは書かれていないのです。どうなっているのかと言うと、これが『仏説無量寿観経一巻』という経題がそこには書かれているのです。しかもその下に「宋元嘉中■(一*田*一*田*一)良耶舎訳」と書いて、経題と訳者というものが明確に示されています。実はこの『仏説無量寿観経一巻』という経題こそ、善導大師が『観経疏』の中ではっきりお示しになった経題なのです。そうすると私達が『仏説観無量寿経』と呼び慣わしている経題というものは、ここでは完全に消されたわけです。善導大師も親鸞聖人もお二人とも、『仏説観無量寿経』という経題にひとつの問題を見つけて、そこから完全に離れたのです。そしてこれは『仏説無量寿観経一巻』という、そういう経典なのだと言い切ったのです。いくら何でも「一巻」というのが経題に入るのかと思うのが普通でしょうし、今日でも『仏説無量寿観経一巻』なんて言っている人は一人もいないですよね。いないと言うよりも、そういうことを言う資格がないので すよ。なぜかと言ったら、その経典に触れていないからです。経典の命に触れていないから、通途の義にしたがって『仏説観無量寿経』と言っているだけであって、経名はこうだと決定していく資格がないんでしょう。

 ところで、ここでひとつ気になることがあるのです。それは『仏説観無量寿経』という経典ほど、経典史学とかあるいは経典翻訳にかかわる書誌学とかいう視点から見て、問題にならん経典はないのです。例えば『無量寿経』の場合は、古くから五存七闕ということが言われまして。もともと中国で翻訳されたものが十二あったのが、その中の七つがどこかへ散逸してしまって、五つが現存しているという事実がありますね。そしてその元であるかどうかはっきり決められないにしても、サンスクリットの経典も現在あるわけです。『阿弥陀経』はどうかと言いますと、サンスクリット本はもちろんありますし、鳩摩羅什だけではなく玄奘三蔵の新しい翻訳の『阿弥陀経』もあるわけですよ。それに対してこの『仏説観無量寿経』という経典は、まず第一にサンスクリット本が見つかりません。そして訳された経典もひとつしかありません。もうそのへんのところで、近代現代の学者達は疑いの目で『仏説観無量寿経』という経典を見るようになるわけです。結局『観無量寿経』という経典は、サンスクリット本もなくて、『仏説観無量寿経』という名前で、劉宋の元嘉年中、ですから424年から453年の 間に、■(一*田*一*田*一)良耶舎(カーラヤシャス)という西域の人がやって来て翻訳した、このひとつの経典しかないということになっているのですが。そこで止まっておればいいのですけれども、どうもあれは偽経とは言いませんけれども、インドでできた経典ではないのではないかという説が浮上してくるわけです。それでインドではなく中国でできた経典だとしますと、それは大乗経典の中に入れておくべきなのか。それとも西域という、インドと中国の中間的なところでできた経典というふうに位置づけていくべきなのか、というような議論もかなりされてきたわけです。それでこの『観無量寿経』という経典は、劉宋の元嘉年中に訳されたということなのですけれども。その元嘉年中(424ー453)という年に先立って、中国の仏教の歴史の中で、白蓮社という中国の浄土教を代表する結社が結成されます。これは先回も少し触れましたが、この白蓮社と言うのは廬山寺の慧遠という人が(浄影寺慧遠とは全く関係ありません)、約120人の同志の人々と共に廬山寺にこもって白蓮社という結社を結んだのです。その白蓮社というのは、浄土系の考え方すなわちお念仏を称えるということと、そ れから禅における瞑想をするということ、その他に律の戒律的な規律のある生活をするというような、そういういくつかの要素を持っているのですが。その白蓮社が中国における浄土教、宗派で言えば浄土宗なのです。ただ問題は、その白蓮社ができたのが402年なのです。ということは、その時には■(一*田*一*田*一)良耶舎による『仏説観無量寿経』の翻訳はまだされていなかったということですね。しかもその白蓮社を結成した慧遠の亡くなった年が416年です。ですから416年でもまだ『観無量寿経』は見ていなかったということになりますよ。そうすると中国における浄土教を代表する結社であり、やがて唐代をくぐって趙宋の時代へ移ってきても、なおひとつの力を持って白蓮宗という名で呼ばれるようになったその白蓮社は、『観無量寿経』に触れていないのです。『観経』に遇っていない念仏の結社だと言わざるをえないと思うのです。ところがその白蓮社、すなわち白蓮宗の第一租慧遠に続く第二租として、善導大師が位置づけられてくるのです。

 私達は善導大師という方は、唐の時代、玄奘三蔵と同じ頃に長安の都に身を置いて、『観経疏』を始としていくつかの書物を書くなど、ずいぶん積極的な活躍をした有名な高僧の一人として位置づけられていたのではないかと無根拠に考えているのではないですかね。ところが歴史学者に言わせますと、善導という人の伝記で信頼しうるものはほとんどないのだそうです。ただひとつ善導と同時代に長安にいて、善導より先に亡くなった動宣という人が書いた「続高僧伝」という書き物がありますが。その中に善導について少し触れられている、それだけが唯一信頼しうる伝記であって。その他はみんないろんな噂やら何やらを集めて作られた物であろうということになっていいます。実はその善導伝について調べて下さった方がおられまして、その善導にかかわる伝記、あるいは善導の行実について触れられている書き物を。いまの道宣が645年に書いた「続高僧伝」から始まって、1881年にズイショウという人が書いた「サイホウイセイ」という書き物まで、その善導に関する部分を全部目次を作って書き出して下さったのです。まだキチッと読んでいないのですが、それをサーッと読んでいっただ けでわかりますよ。それは善導大師がよくお念仏を称えたとか、あるいは『阿弥陀経』を書写したとか、しまいには柳の木の上に登って捨身往生したとかいう話しになると次から次へと出てくるのです。ところが「某今、此の観経の要義を出して、古今を楷定せんと欲す」と、その記述の理由というものが明確に示されている、その『観経疏』を書いた善導という人物が一回も登場してこないのですよ。よくここまで消したものだと思いますよ。私は消したと言うのですけれども。そうやって消していったあげく何が出てきたかと言うと、白蓮宗の第二租として善導大師は位置づけられてくるのです。しかもこれは善導が亡くなってからそう年代を経ておりません。趙宋の時代に宗暁によって記された『楽邦文類』の中にもうすでに出てくるのです。しかしこれはおかしな話しなのです。先程私が『観無量寿経』と白蓮宗慧遠との関係を、わざわざ年代をあげて申しましたように、この慧遠という人は『観無量寿経』にはこの世でいっぺんも遇っていない人なのですね。そしてその慧遠が作ったのが白蓮宗ですよ。そうすると白蓮宗の伝承の中の第二租に善導大師が入るということは、これはどう考えても無理なの です。もし入るとしますと、それは違う善導でなくてはなりません。「古今を楷定」するような善導では困るのです。確かに伝記の中には「屠の類いまで」という言葉が入っていて、それこそ「屠沽の下類」と言われるような人々も集まってきて教えを聞いたということが書かれている伝記もあります。そういう意味では、民衆教化ということに情熱を傾ける善導と、そして念仏者としての善導については、本当に讃仰に讃仰を加えていくような形で作られていますけれども。ついに『観経疏』を書いた善導に関しては一言も触れられていないのです。善導の書いた物の中に『観経疏』というような書き物があったということさえ記述されていないのですからね。

 そうなりますと、そこでもうひとつ考えなくてはならない問題は、そもそも善導大師の書き物の中に『観経疏』という名前の物があったのかどうかということが、大きな問題として出てくるのではないかと思うのです。確かに、法然上人の『選択集』の中には「善導の『観経疏』」という言葉が出てまいりますから、使われていたことは使われていたのだと思うのですが。少なくとも『観経疏』という書き物が善導大師の書き物としてあった、はっきりそういう題で示されていたという根拠はまず見つけることはできないでしょうね。私達は普段から善導の『観経疏』善導の『観経疏』と口についてしまって、善導に『観経疏』という題名の書き物が存在する、もう間違いないのだと思い込んでいるのではないですかね。しかもそれで止まっておればいいのですが、たいていの仏教関係の辞書には、『観経疏』は『観無量寿経疏』の略称であると書いてあります。そして善導についての書き物を書いておられるほとんどの方が、その考えのもとに書いていますよ。つまり『観経疏』というのは略称であって、もともとは『仏説観無量寿経疏』あるいは『観無量寿経疏』と言うのが本来の題名であると。私はその 考え方に徹底して否定的なのです。何故かと言うと、善導大師が「古今を楷定」するとまで言い切って批判を加えられたのは、おもに隋の時代の三人の学匠。すなわち浄影寺慧遠、嘉祥寺吉蔵、天台大師智■(豈+頁)という三人の人が書いた『観無量寿経』についての疏に焦点をあてて批判をしていかれるわけですね。その時に、『観経疏』という名前は容認したといたしまして、その『観経疏』は、『仏説観無量寿経疏』もしくは『観無量寿経疏』の略称であると言ったとします。もしその言う意識の中に爪の垢ほどでも、浄影寺慧遠というすぐれた学匠が『観無量寿経義疏』という註疏を書かれたから、あるいは三論宗の学匠である吉蔵や中国日本を通じて随一の学匠と言われる天台大師智■(豈+頁)も、そういうふうな題名で『観無量寿経』についての註疏を作られましたから。だから、善導大師の『観経疏』も元へ返すと『観無量寿経疏』になるのではないかという意識がちょっとでもあるとしますと、これでもう完全に「古今を楷定せんと欲す」という善導大師の願いはぶち壊されてしまったということになるのです。楷定すると言うのは、徹底的にその誤りを正すということですからね。その正すべき『 観無量寿経』の註疏の中でも、とくに浄影寺慧遠の書いた『観無量寿経義疏』について、それにのっとる形で善導大師は批判を加えていかれるわけですが。たしかに普通の常識感覚から言いますと、浄影寺慧遠の『観無量寿経義疏』というのは丁寧に書かれているのです。ボヤッと読んでいますと、善導大師の方が間違っていて浄影寺慧遠の方が正しいのではないかと思いますよ。文字の読み方なんかは善導の方がよっぽど間違っていますよ。そんなふうには絶対読めないという読み方をしていますからね。それほど善導大師の『観経疏』というのは、ちょっと読みこなしていくのが不可能に近いほどやっかいな文章です。ところがどれだけ見事な文章で書かれていたとしても、今申しました三人の人に代表されるような立場で『観無量寿経』という経典を了解するかぎりにおいて、それは誤りを犯しているのですと。『観無量寿経』という経典を通して仏教を誤っているのだとということを善導は言い切っていくわけですね。何がその決定的な誤りなのかということが見つからなければ、善導の「古今楷定」の趣旨はわからないのでしょう。

 そうしますとね、何が決定的な誤りかと言うと、実は私は『仏説観無量寿経』という経典ほど、危ない経典はないと思うのですよ。だって「観無量寿」ということを全然思わない人がいるでしょうか。それはなにも「観無量寿」という言葉通りのことを思っているとは言いませんよ。そういうふうなことを夢見ていないと言い切れる人がいるでしょうかね。私達が生きるということは、相対で有限で有量の諸相を生きているのです。絶対に無量寿を生きておりません。有量の諸相を生きている不安の故に、限りなく無量寿という言葉に収められるような事柄を夢見続けているのではないですか。夢見続けて、その夢見ている中で一生を棒に振っていくのではないのですか。空過と言いますけどね、なにもしないで昼寝をしているから空過じゃないんですよ。疲れを癒し活力を取り込むための大事な昼寝というのがありますからね。昼寝なんかして、そういうのを空しく過ぐると言うのだと言うんだったら、いつでも起きていなくてはならないことになりますよ。何を根拠にして空過と言うかと言ったら、有量の諸相を生きる以外に生きようのない人間が、有量の諸相を生きているということに安んじえずして、 有量の諸相のかなたに無量なるものを夢見続けて、有量の諸相を無駄にしている。これが空過なんでしょう。その有量の諸相を生きている人間が、夢見続けて見たいと欲し願っているものは何かと言ったら、言葉で表せば「観無量寿」ということですよ。無量寿を見たいのですよ。何かそういうことが人間の待望の意識の根っこにあるわけです。ですから空過というのは何かと言ったら、はっきり言えば「観無量寿」ですよ。「観無量寿」の上に生きているから空過するのです。「急走急作頭燃を炙うが如く」しても空過なのです。生活の根っこが無量寿を夢見ているからでしょう。ですから一歩誤ると『仏説観無量寿経』という経典は、その経題からして大変危険な経典だと言わざるをえないと思うのです。ただその時に、私達がこの『仏説観無量寿経』という経題の上のどこに大切な言葉を見出すか。いわゆる空過の元凶にならなくて、むしろ空過を破る文字を見出すとすると、それは「仏説」の二文字ですよ。仏説でない無量寿は私達が毎日夢見ているのですから。そして夢の中でも夢を見て、夢に破れているのですから。そうではなくて、その有量の諸相を生きている人間に、真に真無量を感知することの 出来る存在になれということを仏が説きたもうた。その仏説を聞くことによってのみ『仏説観無量寿経』という経典は、私達にとって真に決定的な意味を持つのでしょう。ところがこの「仏説」の二字も、先程の証信序と同じ意味で、仏説は仏説でみんな同じだからということであんまり読まないのですよ。読まなくてもいいような経典の題もないとは言い切れませんけどね。でもこの『仏説観無量寿経』だけは、この「仏説」をはずしたら、もう完全に私達を空過の世界に出さしめる言葉ですよ。そういう意味で、この「観無量寿」という言葉はものすごく危険な言葉だと思います。

 そういうことを申しますとね、『仏説観無量寿経』という経典はたいしたことない経典だと、みんな思っているのですよ。先程、いつできたとか、偽経ではないかというような話しも出ておりましたが、たいして問題にならん経典だと思っているのですよ。しかし私が今言いましたようなことは、具体的な歴史の事実として実証ずみなのです。何故、浄影寺慧遠、嘉祥寺吉蔵、天台大師智 という三人の人達だけではなくて、その後も多くの学匠達が、『観無量寿経』についての解釈をなさったのか。言うならば何故当時のゆゆしき仏教学者達が、この経典に関心をよせざるをえなかったのでしょうか。この経典はつまらん、ひょっとすると偽経かもしれないという感覚を一面では持ちながら、これを解釈しなければどうも落ち着かないというものが学匠達の中にもあったということは。この「観無量寿」ということの、とくに「観」という一字が持っている意味の中に、実は仏教のみならず中国の諸思想が、人間の救済の方向性というものをそこに見出していこうということがあるからですよ。しかもそれはそういう学匠達だけの問題かと言うと、そうではないのです。この『観無量寿経』という経典は、い ろんな伝記にも出てまいりますが、当時流行の経典だと言われています。そうすると、やはり多くの民衆も『観無量寿経』という経典には心惹かれたのだろうと思うのです。ところがそういう民衆の関心が、無量寿を見たい、阿弥陀を見たいということで、この経典に心を寄せといくことも。学者が、自性清浄仏性の観であるとか、唯識仏心の観であるとか、むつかしい理屈をこねながら観というものを位置づけようとしていることも、中身は一緒でしょう。質は同じなのですよ。しかもそれは今日に至ってもそうなのです。今日の宗教と言われる事柄を見定めていこうとする時、みんな「観無量寿」というこの四文字に収めていくことができるのです。とすると「観無量寿」というこの文字をこのままにしておいて、仏教の命を明らかにしていく経典であるということは、むしろ不可能なのです。

 その時善導大師は、わざわざ『玄義分』の中で「釈名門」という一門を設けまして、そのことをはっきりと言い切っていかれます。どうおっしゃったかと言うと、「名を釈せば、経に言はく、『仏説無量寿観経一巻』と。」とおっしゃいました。もちろんこれは親鸞の読み方ですよ。こういうところに独特の言葉使いと言いますか、非常に強調性が明確な言葉使いがありますよ。親鸞聖人は「経に、『仏説無量寿観経一巻』と言へり。」とも読んでおられますから、どちらでもいいと思いますが。とにかく「経に言はく、『仏説無量寿観経一巻』と。」と、経言(きょうごん)という言葉で押さえているわけですよね。経典の題名ですからね、これは。いくら自分がそう思うからと言って、やたら変えるわけにはいかないと思いますよ。ところが「経に言はく」と言った時に、これは逆にその経典が、この題名はこうだとおっしゃった。経典が語りかけた。その語りかけによって私は、『仏説無量寿観経一巻』という経題をこの経典から聞き取ったのだというふうに善導は示したのでしょう。そうすると『仏説無量寿観経一巻』という経題は、善導が勝手につけたと言うよりも、善導大師がここまで言わなけれ ばならなかったのは、経典として「観無量寿」ということを聞くことはできない。つまり「観無量寿」という言葉が、そのまま人間全体を空過の淵に追い込んでいくという事実を見つめながら、釈名門というのはできたのでしょう。としますと、その釈名門のところで示された『仏説無量寿観経一巻』という経題を、親鸞聖人が『観阿弥陀経』の中で、その経典を書写していかれる時に、『仏説無量寿観経一巻』とその通りの経題を書いて、そして「宋元嘉中■(一*田*一*田*一)良耶舎訳」と書いたのは。これは親鸞聖人が、きわめて積極的に善導大師の教えに直参していかれたということを示していると思うのです。しかもおそらくはその当時、すでに法然上人が『選択集』の中で、「正しく往生浄土を明す教というは、三経一論これなり」と言って、「三経というは、一には『無量寿経』、二には『観無量寿経』、三には『阿弥陀経』なり。」と、こう言い切っておいでになるにもかかわらず。あえてそれを飛び越える形で、善導大師の釈名のお言葉にしたがって、この経典の題名を『仏説無量寿観経一巻』という経題として位置づけた書写をなさいました。私はこの精神の中に、かなり大事なものを見据えて いかなくてはならないと思うのです。それを見据えながら、一度その註記と言われている物の中の、言葉の次第なり、順序なり、展開なりというものを見ていかなくてはならないと思うのです。なにしろ見つかってから50年も経っているのですからね。それを今放棄をしておいて、これからも見ていかないとするならば、真宗教学と言っている学問もあまりに片手間な学問でありすぎるということになりましょうし。やはり始めが押さえ切れないということが、決定的な問題になると思うのです。

 もう一言つけ加えさせていただきますと、いまの善導大師の釈名門というところは、非常に独自な表現をとっているのです。そこでは『仏説無量寿観経一巻』という経題について、「「仏」と言うは」、「「説」と言うは」、「「無量寿」と言うは」というふうに、非常に丁寧にその経題の名義というものを明らかにしていかれるわけですけれども。そこに、南無阿弥陀仏という言葉をポンと出して、その南無阿弥陀仏は「西国の正音なり」とおっしゃって、そして「南は是れ帰」「無は是れ命」というふうに字をひとつずつあてていって。南無阿弥陀仏は、中国語では「帰命無量寿覚」と言うのだとおっしゃるのです。ちょっと無理があると言いますか、どうもそういうことはないようです。ところが親鸞聖人は、『観阿弥陀経』の『仏説無量寿観経一巻』という経題のところに、確かに釈名門から文章を引いて註記しておられますけれども。どこで止めているかと言うと、今申しました善導大師が南無阿弥陀仏の名義を明らかにするその部分で止めているのです。ということは、おそらく親鸞聖人のお気持ちの中では。法然上人から南無阿弥陀仏を教えていただいた。その南無阿弥陀仏を善導大師のところ へ返して見ていきますと、それは「仏説無量寿観」として示される事柄、それは南無阿弥陀仏なのだということを善導大師の釈名門の言葉から感得しておられたのではないかと思うのです。ですから南無阿弥陀仏の名義釈のところでスパッと切ったのでしょう。そういうひとつの例を見ただけでも、『観阿弥陀経』に集められている註は、決して自習ノートだからいいかげんに書いたとか、なにもかも全部写したとか言うのではありません。ちゃんと切るところは切って、はぶくところははぶいています。とするとこの『観阿弥陀経』の集註というものは、十分に注意をして読んでいかなくてはいけない親鸞の思想の営みであり。しかもこれまで私達が見てきた親鸞の思想営為と言われているものを、ある意味で大きく根拠づけていくものをそこに見出すことができるかもしれない。そういう未知の部分であるということを申し上げて、今日は終わらせていただきます。